【観劇】ロロ「四角い2つのさみしい窓」

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一度中止になった公演が戻ってきた。こんなに嬉しいことはない。

 

 

再会は二度目の一期一会。

 

この台詞が印象的だった。

 

失われた家族に再会した。

やっとの思いで会いたかった人たちに会えたというのに

このまま一緒にいるという選択を取らなかったことに驚いた。

 

その理由は いつかまた会えるから だった。

家族に依存していた彼がひとりで立っていけると感じさせてくれた。

 

壁に分断された世界で同じ場所に集合する四人と四人。

家族、夫婦、恋人、友達。

わたしと誰かの関係性はわたしだけのものだ。

 

周りに理解されなくても前例がなくても、

わたしとあなたの関係性はわたしたちだけのもの。

 

 

 

初対面の人に「演劇がすきで、やってて、よく観に行く」と話すと

100%「すごいね~!!」と返ってくる。

 

確かに演劇はマイナーな趣味だけど、「すごい」は腑に落ちない。

それはきっと私にとって演劇は「すごいこと」ではないからだろう。

 

誰のどんな趣味も「すごい」わけじゃない。

 

私にとって「すごい」と思うことも、本人にとってはそうじゃない。

だけど、自分の「すごい」を相手に押し付けてしまうことがある。

気をつけてはいるけれど、

いつのまにか私の尺度を相手にも当てはめて身勝手な評価をくだしてしまう。

 

 

 

演劇のすきなところは「同じ公演は二度と作れない」ところだ。

 

たとえ同じ演目で同じキャストでも、観客の反応や空気は公演ごとに変化する。

何度も稽古した演目であっても段取りや台詞をトチることがある。

照明や音響のタイミングをミスることもある。

変なトコでウケて反応を見てから次の台詞を発する時もある。

 

だから決して同じ公演はできない。

 

 

私は「劇場は観客がいることで完成し、演劇は観客がいるから成立する」

と思っているし、「一度きり」が演劇の醍醐味なのだと考えている。

 

毎回「一度きり」の体験を求めて劇場に足を運ぶ。

 

こんな時代になってからも何度か観劇に行ったが、

どの公演も感染対策ばっちりだった。

 

そもそも上演中のおしゃべりはマナー違反だから

観客たちが集まっても会話が生まれることはない。

私はいつもひとりで観に行くのでしゃべる相手もいない。

 

困難な状況のなかでも、

演劇を楽しめている私はとっても恵まれているし、幸せ者だと思う。

 

そう思うと同時に私ではない誰かのことを考える。

 

たまたま私の趣味は私一人だけでも楽しめるものだ。

けれどたまには私だって友達と感想戦しながら帰りたいし

観劇後にちょっと背伸びしたディナーを食べたい。

このちょっとした楽しみがずっと奪われているのはつらい。

 

私と同じかそれ以上に、

100パーセント趣味に打ち込めていない人が多くいるのだと思う。

 

きっとこの世には誰かと分かち合って、震えて、叫んでこそ

より楽しめるものがいっぱいある。

それを仕事に、趣味に、生きがいにしている人も多いはずなのだ。

 

それらがなんとか止まらずに途切れずに

このままあり続けることを願っている。

 

私と演劇のすきで結ばれた関係性は私のものだ。

でもだれかとだれかのすきの関係性も守られるべきなのだと思う。

 

だから私だけじゃない。

あなたのすきなものをすきに楽しめる日がはやくきますように。

わたしとあなたのすきなものがずっと続いていきますように。

【エッセイ】親知らずを抜いた話 左上

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私が初めて親知らずを抜いたのは大学3年の11月だった。

 

以前から左の奥歯らへんに痛みを感じる瞬間があった。食べ物を嚙むとぴりっとした痛み。ずっとあるわけじゃないけれどときどきくるいや~な感じ。

 

もしかしたら虫歯かもしれないな…でも歯医者さん行きたくないな…

いやでも歯医者は早めにいくほうがましだよな…と思っていた。(経験者は語る)

 

幼稚園の頃同じく左の奥歯に虫歯をつくり、眠れないほどの痛みが出るまで痛いと言い出せなかった私。その日の夜のことはめちゃめちゃ覚えてる。歯医者さんで歯科医師さん数人に抑え込まれながら治療された。(そのときの歯医者さんは10年近くお世話になったが、数年前にたたんでいた)

 

母に「最近歯が痛いんだよね、歯医者さん行こうかな」と言えるようになった私は、おじいちゃんお父さんもお世話になっている歯医者さんへ行くことに。家族3代でお世話になるが、はじめて行く歯医者さんで緊張していた。

 

私が虫歯かも…と思っていた痛みは、親知らずのかみ合わせがうまくいかず歯茎を傷つけていたことによるものだった。

 

レントゲンを撮って説明してもらったのだが、私の下の親知らずはまっすぐ生えているものの完全に出て来ていない状態だった。(半分顔を出してる感じ)その歯が出て来ていない部分に上の親知らずが当たって痛めていた。

 

気さくな先生は「けっこう傷ついてるね~痛いでしょ?」と。

虫歯じゃなかったことは良かったけれど、奥歯の歯磨きが苦手なことはばれていたので(治療跡もあるし)次回抜歯することを決め、歯磨き指導を受けた。

 

数日後,、痛みの原因である左上の親知らずを抜いた。

私の上の親知らずは完全にこんにちはしていて、まっすぐ生えていたので一瞬だった。歯医者さんで麻酔を打たれる経験は豊富なので、よっしゃよろしくお願いします!!!と前のめりだった。

 

ほんとうに一瞬で終わって、抜かれた歯を見せてくれた先生おもしろかったな。

 

でも歯を抜くのははじめてだったので思っていたより血が出て焦った。ガーゼが血でいっぱいになり、麻酔で感覚ないけど自分ちゃんと嚙めてるのか???と不安だった。とはいえすぐにおさまって、痛み止めとガーゼをもらって帰宅した。

 

それから数日は患部を優しく歯磨きすることを心掛けた。麻酔が切れてめちゃめちゃ痛いということもなかった。私の痛みは歯茎が傷ついているゆえなのですぐにはなくならなかったけれど、だんだんひいてきた。

 

ここまでが一本目の親知らずを抜いた話。

 

 

大学4年になった私はまた、左奥歯に痛みを感じるようになる…。

おそるおそる以前抜歯してくれた歯医者さんに診療予約の電話を入れる。

 

先生本人が出てびっくり。

 

症状と名前を伝えると、覚えていてくれたのか(おそらくカルテを取りに行って)「それは下の親知らずかな~おそらくここでは治療できないから、もう少し大きい病院の紹介状を渡すことになる可能性が高いけど見せにきて」と言われる。

 

親知らず説がでたけれど、左奥歯といえば、いにしえの虫歯が思い起こされる私。自分の歯磨きが信用できないので、虫歯説捨てないでよ先生と思いつつ歯医者さんへ。

 

痛みを感じる場所てきに、左下の親知らずが炎症を起こしている?らしい。奥歯の歯磨きが苦手なうえに、この親知らずが磨きにくさにスパートをかけているようだ…。

 

親知らずは悪い影響がなければ抜かなくてもいい歯だけれど、痛いときは抜く方がいい。ずっと痛いのはいやなので抜歯を決意。

 

レントゲンを見る限りまっすぐ生えている(プロが見たらナナメなのかもしれない)が半分しかこんにちはしてないので、ちゃんとした設備の整った病院を紹介してくれることになった。

 

 

20歳くらいで歯が痛いなと感じた人は親知らず関連のことが多いようです。無理せず我慢せずなるべく早めに歯医者さんに行くことをおすすめします。(虫歯の可能性も普通にあるのでなおさら早く)

 

歯医者さんに行くと、日々の歯磨きしっかりやらなきゃなって改めて思う。

歯磨き大事…歯磨き頑張らなきゃな…

 

ちなみに…

紹介してもらった病院で年明け親知らずを抜くことが決定しました!

 

【読書感想文】少年を衝き動かした言葉

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「そうかそうか、おまえはそういうやつだったんだな」

 

これが、私の覚えている『少年の日の思い出』だった。

 

隣の家のエーミールが珍しい蝶を捕まえた。

「ぼく」はとても羨ましくて

こっそりエーミールの蝶を盗み、壊してさえしまう。

 

そのことを打ち明けた時に

「ぼく」にかけられるのがエーミールのこの言葉だった。

 

 

私にとって、『少年の日の思い出』は

犯した罪の大きさを知ることができる作品だし

自分の行動によって誰かから決定的に拒絶される

という経験を得られる作品だと思う。

 

もちろん蝶を盗もうとして壊した「ぼく」が悪いのは言うまでもないが、

それでもこんなにガツンと殴られるような

エーミールの言葉は必要だったのかと思っていた。

 

ちゃんと謝って仲直りしてハッピーエンド。

そんなしあわせな話ばかりが私の周りにありすぎたんだけど。

 

 

もう一度この作品を読み返してみると、

記憶にある意地悪で、調子に乗っていたエーミールはいなかった。

 

むしろ彼は蝶を愛して大切にしているし

怒りに任せてどなったり暴れたりしないし

優等生な人だった。

我ながらひどい記憶の改ざんだなと思うけど

エーミール自体よりも、その言葉ばかりに注目してしまうからなんだろう。

「きみはそういうやつ」という言葉から

悪いイメージを勝手に作っていたのかもしれない。

 

 

ちなみに今回読んだ

『少年の日の思い出 ヘッセ青春小説集』(草思社文庫)の「少年の日の思い出」で、

エーミールが「ぼく」にかけた言葉は以下のとおりだった。

 

「そう、そう、きみって、そういう人なの?」

 

この言葉について私は、

私がこれまでに読んできたもの

記憶の中にあったものとは違うニュアンスを感じている。

 

それまではエーミールの家柄や権力を感じてしまうことが多かったが、

今回は違った。

 

エーミールの純粋な疑問でシンプルな確認なのだろう。

同じく蝶を集め、コレクションしている同志として

「ぼく」を責めつつも突き放している。

 

コレクターとしては、同じコレクターたちにも、

そして蝶たちにも愛やリスペクトを感じられないといけないと思う。

だからこそ、このエーミールの言葉からは

いかに彼が本気で蝶の採集に取り組んでいるかが示されているのだろう。

 

ちょっぴり見方が変わるのと、あたらしい発見がある。

【エッセイ】絵本の「二冊目」を買う理由

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私はこの日もアルバイトをしていた。

 

贈り物に選んでいただけることが多い書店。

冬の凍てつくような寒さに合わせて

しっとりとしたBGMが流れるようになってきたこの頃。

 

 

注文商品が届いたというおばあさんが私のレジにやってきた。

名前とタイトルを聞いて、本を探す。

 

絵本を頼んでいたらしい。

 

頼んでいたものが合っているか確認し、レジに通す。

ピッ、ピッという電子音が響く。

 

 

すると、おばあさんが「ラッピングをお願いしたいんだけど…」

と私に伝えてくれた。

私のアルバイト先である本屋さんでは、贈り物用のラッピングを承っている。

 

ラッピングは誰かをワクワクさせるための準備、

そのお手伝いをしているみたいで楽しい。

 

先に会計を済ませて、包装紙を選んでもらう。

おばあさんはかわいらしい動物が載ったものにするそうだ。

 

さっそくラッピングに取り掛かる私に、

おばあさんはこの本を注文して買ってくれた理由を教えてくれた。

 

 

 

実はおばあさん、この絵本は二冊目だそう。

ラッピングし終えてキラキラのシールとリボンをつけた「二冊目」は、

遠くにいる娘さんとお孫さんのところに贈るらしい。

 

こんな状況だから会えないけれど、プレゼントとして贈りたいのだという。

おばあさんは以前この店で買った「一冊目」をとても気に入り、

この絵本を大切な人に届けたい、そう思ったそうだ。

 

 

私は胸がジンとあつくなった。うれしかった。

 

 

それは、本という存在が誰かの心を届いているんだとに改めて気づけたからだ。

 

この「二冊目」の絵本には、

おばあさんの、娘さんやお孫さんに会いたい気持ちがたくさん詰まっている。

 

大切な人を思う気持ちがたくさん詰まっている。

 

贈る側、受け取る側の両方が

「二冊目」の絵本を通してあったかい気持ちを共有するのだろう。

 

そして、私の働いている場所が

そんなあたたかさを届ける助けをしていることが誇らしかった。

 

私がラッピングした「二冊目」は

多くの人の力を借りながら、

遠くにいるおばあさんの大切な人のもとに届くのだろう。

 

ワクワクしながらページを開いていてくれるといいな、そう思う。

 

 

誰かの、大切な人を思う、あたたかな気持ちは、

今日もどこかで届けられているんだろう。

 

その過程にちょっぴり関われたことがうれしい。

 

 

絵本の「二冊目」を買う理由は、とってもやさしくてあったかい。

【読書感想文】こんばんは、カレーライス

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私と重松清作品の出会いは、

小学校の国語の教科書に載っていた「カレーライス」だ。

 

 

どうやら六年生で習うみたい。

私は今年二十二歳になるので

ちょうどはじめての出会いから十年が経つのだなあ。

 

 

大学生になった私は図書館で懐かしいタイトルに再会する。

それが『カレーライス 教室で出会った重松清

 

お!と思って棚から取り出してそのまま借りてきた。

 

 

この本には、全部で九編収められている。

 

カレーライス

千代に八千代に

ドロップスは神さまの涙

あいつの年賀状

北風ぴゅう太

もうひとつのゲルマ

にゃんこの目

バスに乗って

卒業ホームラン

 

どのお話でも、家族や友達に対するもやもやを抱えていて、

そのもやもやのリアルさというか、

わかる気がする、こう感じていた気がする

と思わせてくれるような力があるなと感じた。

 

私のお気に入りは「カレーライス」「バスに乗って」

 

カレーライス は思い出補正がかなりある。

でも読み返してみると、細かい記憶違いはあるものの、

こういう話だった~!というなつかしさがあったな。

 

主人公の男の子は小学六年生だけど、

すでに中辛を食べ始めていることに驚きました。

 

私は辛いものがダメなので、

今現在も中辛はからい!!!と思って食べている。

 

甘口だからこども、辛口ならおとな。

なら中辛はちょっぴりおとな、なのかな?

 

別にどの辛さを選んでもいいけれど、

おとなになれば自然と辛口カレーが似合う人になると思っていたのに…

 

現実は厳しいものでした。

 

 

バスに乗って はまあバスに乗る話なんですが

(ネタバレに最大限配慮した結果)

そのひたむきな思いに、

おばちゃんはボロボロ泣いてしまった。

 

私はあんまりバス経験がなく、

いつもドキドキしながら乗っている。

 

乗ってから降りるまでの

ちゃんと降りますボタン押せるのか、スムーズに立ち上がれるのか、

運賃箱にミスなく小銭を入れられるか、運転手さんにありがとうが言えるのか、

などなど一連のミッションたちをきちんと達成できるのか、

いつも真剣勝負なことを思い出す。

 

どれもあったかいお話だったので

からだやこころが疲れたときに触れてしまうと、

そのやさしさや愛に包みこまれてしまうんだなあ。

 

ほんとうに危険。

読むタイミングや場所にはくれぐれもご注意ください。

 

 

 

ちなみに今夜はカレーライスでした。

 

【エッセイ】会いたくて会いたくて震えるってすごい

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私がはじめて買ったCDは

西野カナの「会いたくて会いたくて」

 

あれは、今ほど音楽が気軽に聴けるような頃じゃなくて

CDを買ってプレイヤーに入れて、再生ボタンを押す、そんな頃。

 

今考えればびっくりするくらいの手間だけど

ここまでして聞けるのが音楽だったなと思う。

 

ティーンだった私の前に突如現れた

明るい髪の、メイクがバチバチの、歌が上手なおねえさん。

あっというまにヒットを出して、スターダムへ。

 

近所のショップでこのCDを見つけて買ったあの日。

 

なんで「会いたくて会いたくて」を買ったのか

正直理由はわからない。

 

はちゃめちゃ流行った!!!という感覚はある。

しかしあの頃の西野カナは出すたびにヒットしていました。

 

そのなかで私がなぜ「会いたくて会いたくて」を買ったのか、

その理由は謎。

 

 

考えても分からなかったので、曲を聞くことにしました。

 

 

会いたくて会いたくて震える

 

 

やっぱり今聞いても凄いフレーズ。

震えるほどに会いたいだなんて。

 

 

震えるといったら、

寒さに凍えるときと恐ろしいものに出会ったとき。

(できれば震えずに生きていたいです。)

 

この歌って簡単に分けたら失恋ソングで、

未練たらたらなわけじゃないですか。

 

この「会いたくて会いたくて震える」ってのも、

どう考えてもポジティブな感情じゃありません。

 

もうやり直せない相手のことを、

やり直せないとわかっていても、

会いたい。その気持ちで体が震えてしまうほどに。

 

なんとも辛く、悲しい気持ちの詰まったフレーズなんだ、と。

 

ティーンの私は、そんなこと考えてもいなかった。

でも少し大人になった私はこの歌の主人公のことを心配してしまう。

 

誰かと出会って、新しい恋に向かえたのだろうか、

そんな10年越しの心配をしてしまいます。

 

 

西野カナ有識者ではないのでざっくりと感じた主観ですが、

初期(2010年あたり?)から最近(2017とかそのへん)にかけて、

歌のテーマが、切ないや失恋から

明るい、両想い、応援歌に変わったような気がします。

(あくまで個人の感想です。アルバムとかは違うかもしれない。)

 

共感を得る恋愛のテーマは変わっていくのでしょう。

音楽を、自分でつくること、発信することができるようになって、

もっと身近になった今、どこから火がつくかなんて予測不可能です。

 

だからおもしろいなと思います。

 

音楽はそばにやってきました。

それは姿が目に見えないからでしょうか。

それに対して形のあるCDはちょっと特別なものになった気がします。

いや、まだまだ力を持っているけれど。

 

だからあの頃の私と同じくらいのティーンは、

CDをこれから手にするのかもしれません。

 

はじめての一枚が、大切な一枚になるといいなと

ティーンじゃなくなった私はそう思います。

 

【観劇】下鴨車窓「散乱マリン」

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先日、下鴨車窓さんの「散乱マリン」を観劇した。

 

芝生と壊れて積み重なった自転車があるだけの舞台なのに

海の底にいるような感じがした。

 

知らない人にこのことだけを伝えてもなにもわかってはもらえないだろうけど

ひとすじの青色のライトは、空の青じゃなくて海の青だったように思う。

 

劇場からの帰り道

ひとりでその日みた演劇のことをぐるぐる考えるのがすきだ。

誰かとみに行って「ここが印象に残った!」とか

「キャストのここの演技すごかった!」とか

話すのも楽しいけれど、ぐるぐる自分で考える時間もおもしろくて楽しい。

 

その日は海の青について、ぐるぐる考えていた。

もちろんタイトルに「マリン」と付くので

それはそうと言われればそこでおしまいなのだけれど

なにかもう一つあるような気がしていた。

 

 

ぐるぐる、ぐるぐる、考える。

ぐるぐる、考える。

 

 

私は開演前、もらったパンフレットたちに先に全部目を通すタイプの人間である。

なんとなく海の青だと思った理由が

脚本と演出を務めた田辺剛さんのあいさつの文章にあった。

 

 

私もあの日から

海の底に静かに眠っている名も知らない誰かのことを想像していたのだろう。

彼らは今日どんな夢をみるのだろうか、

昨日は?そして明日は? 

 

人だけじゃない。

忘れ去られていくモノも景色も思い出もたくさんあるのだ。

私が忘れてしまっていることに気づいていないだけ。

 

そうやってどこかに置いてきた何かが

いったいどれだけあるんだろうと考える。

考えても分からないものは分からないけど。

 

忘れちゃいけないはずなのに、

忘れたくても忘れられない人もいるはずなのに、

私がいつのまにか取りこぼしてしまっていた気持ちにまた会えた気がした。

 

 

すてきな公演でした。ありがとうございました。

 

 

P.S.

演劇をソーシャルディスタンスでみるのは初めてだったけど、

隣の人に気を付けなくていいのが楽だった。

カバンとか着てきたコート邪魔じゃないかなとか動いたらぶつからないかなとか、

そういう心配をしなくていいのがよかったな。

 

またいけるといいな。