【三行日記】2022年1月②

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激動の1月2週目。わたくしは必死に論文と戦っておりました。

 

1月8日(土)

親知らず抜歯から数日。抗生剤を服用するのだけど、飲むと下痢になりやすいから下痢止めも一緒に渡された。昨日はなにも起こらなくて油断していたら突然おなかがキュルキュルと叫びだす。家でよかった。あとくしゃみすると痛い。

 

1月9日(日)

次にこれを読もうと決めている本がある。中野京子さんの「名画で読み解くハプスブルク家12の物語」だ。だけどもなかなか手が伸びない。表紙の見返り美人図みたいなプリンセスが怒っているように感じるのは私だけでしょうか…?

 

1月10日(月)

美容院をさぼっているので前髪が目にかかるくらい長い。自分で切ってしまってもいいけれど「どこまで前髪なのか問題」が発生するから、がまんがまん。そうこうしていたらセンター分けでお送りしてもいいかんじになってきた。これは自粛期間に成長したアイブロウのおかげでもある。おでこを出すのが嫌じゃなくなってきた、冬。

 

1月11日(火)

1が3つ並んだ日。運気の良い日みたいで、財布を買いたい欲が増した。年末から悩んでいて、こげ茶のアンティークな感じにするか、ピスタチオみたいな緑のがま口にするか決められない。どっちもいいよね~~~

 

1月12日(水)

風が強い。窓の外から見える風車が見たこともないスピードで回ってるのがこわいな。回れば回るほど電気に変換されるのかな。せっかくいいかんじにした前髪だったのに、風のおかげで全部無駄になりました。中途半端じゃなくて猛烈な風でよかったけど。

 

1月13日(木)

卒論を提出。学務でめちゃめちゃ久しぶりにゼミのちがう友達に会ったけど、一ミリも名前が思い出せなくてツラい。もうそんなに老化傾向が…おばあちゃんへの道のり…?とパソコンに向かっていたら思い出した、いっちゃんだ。おつかれさま。

 

1月14日(金)

のびのびと過ごせる日はひさびさ。お母さんが録画していたハロプロのコンサートを鑑賞した。歌って踊るアイドルは輝いていてまぶしいね。いつも元気をもらっている。誰もが健やかに、おいしいものを食べて過ごせますように。

 

来週もがんばっていきましょ~!

【エッセイ】成人の日と22歳のわたし

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先日は成人の日でした。成人式の思い出を語ると老いを感じてしまうのでやめます。

 

22歳になった今でも「大人」にはなれていない。実家でぬくぬく暮らしているわたしは料理も洗濯もまともにちゃんとしたことがないし、学業のPDCAサイクルは上手に回せないし、アルバイト以外で社会勉強らしきものもしていない。

 

こどものころ、20歳は「大人」だった。すきなものを食べて、すきなものを買って、そうやって暮らしているのだと思っていた。だから「大人」に近づけば近づくほど自由になれるものだと信じていた。

 

19歳と20歳にはマリアナ海溝くらい差があると思っていたけれど、特に何もなかった。普通の誕生日と同じようにこの日から20歳ですよ~と名乗れるようになっただけなのだ。誕生日当日にお酒でも飲めばそう感じたのかもしれないけれど、20歳になったから飲もうということもなかった。はじめてのお酒は20歳になってひと月たったころ、スナックのママのおすすめで400円のレモンサワーだった。大きめの四角い氷の音が響いて素敵だったけど、炭酸ってこんなにしゅわしゅわしてたっけ?と思ったし、これよりも150円の紅茶を飲むほうがわたしにはおいしいなと思ったのだった。

 

20歳と数年を過ごしてみると、あのころ思い描いていた「大人」と今のわたしは似ても似つかないことに気づいてちょっぴり落ち込む。なんであんなにキラキラして見えたのだろう。そのまま大きくなって22歳という称号を手に入れただけなのに。いつまでたっても自分に甘くて、走るのが遅くて、無駄なプライドは高くて。嫌になっちゃうな。

 

わたしにとって「大人」は憧れであったはずだけど、いざ自分がそれになってしまうと考えてもみなかった苦しさとか辛さが邪魔をして純粋に憧れるだけではいられない。

 

わたしはあのころどうにかはやく「大人」になれないかなと思っていた。だけど「大人」は20歳になったからなれるものではない。いつまでも、こどもではいられないとわかっている。じゃあいつわたしたちは「大人」になるのだろう。それは、自分がちっとも「大人」じゃないことに気づいたときなのかもしれない。「大人」になんてなれないわたしがそれでもなお進んでいく先にある未来の姿が「大人」なのかもしれない。

 

成人の日。おめでとうございます。今更かも。

【三行日記】2022年1月①

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日々の記録として忘れ去りたくない記憶をぽつりぽつりと書き残しておきたい。毎日書くのはなかなか大変だけど、三行だけならきっと大丈夫。ちょっぴり忘れても追いつける。2022年は自分と向き合う時間をつくっていきたいな。

 

1月1日(土)

あたらしい朝が来た。でもただの朝じゃなくて新しい年を迎える朝だから、いつもより少しキラキラしているような気がする。お正月恒例のアルバイトは、お釣りを返したトレーごと間違えて持って行ってしまうお客さまがおもしろMVPでした。

 

1月2日(日)

バイト先の本屋さんは有線じゃないから季節に合ったBGMが流れている。とくに25日までのスーパークリスマスメドレーは、26日になったとたん「もう~~い~くつ寝ると~お正月~~~~♪」に変わる。変わり身が早くて笑ってしまうんだよな~。

 

1月3日(月)

三が日のテレビ三昧。我が家は通年録画容量に悩まされていたけど、年末にDVDにうつすやつを買ったため余裕があります。移したやつを再度見ることがあるのかと問われると、ない気もするけれど残っている安心感がすごい。いつ見たくなるか、わからないですからね。

 

1月4日(火)

セリアに行ったらかわいいシールがたくさんあって困った。ここ1年は手帳にこだわっていて、いかに自分で自分のテンションをあげられるのか気になるところ。1月の手帳用という名目で3枚ほど購入。開けてみると思ったより枚数あってびっくり。

 

1月5日(水)

大学四年生なので卒論追い込んでいる。今までレポートやらなんやらで文章を書いてきたけど卒論はやっぱり大変だな~と身に染みて感じている。自分の言いたいこととか考えてることをきちんと言語化して伝えるのって難しいな。

 

1月6日(木)

早起きすると一日が長い。私が自由に使える時間が増えるような気がする。だからいつも早起きから一日を始めようと思ってはいるんだけど寒い冬の日のふとんは手ごわいのだ。勝てる方法があるなら教えてほしいくらい。

 

1月7日(金)

朝から頭が痛い。昨日夜更かしして遅くまでインターネットの海をさまよっていたのが原因なんだろう。何も産まれないのに見てしまう恐ろしさがとてもこわい。

 

2022年になった。その最初の7日間。正月だからって不思議なことが起きるわけではないね。

【読書感想文】あこがれを抱きしめて

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いま、私が憧れているもの。

キラキラのネイル

すれ違ったときにどきっとする香水

縁側でお茶を飲む老後

泡であふれたお風呂

私だけの本屋さん

そして、赤のモレスキン

 

子どもの頃から「憧れ」がいっぱいある人生だった。

将来の夢も、なりたいひとも、やりたいこともたくさんある。

いつだってなにかに憧れて、目指して、叶えたり変えたりしてきた。

 

『赤いモレスキンの女』を読んで、またひとつ「憧れ」ができた。

 

私にとって「憧れ」が増えることは喜ばしいことだ。

なぜなら自分を変えるチャンスだからだ。現状維持だけになるのは嫌だ。

できることならひとつでもふたつでもタンスの肥やしを増やしておきたい。

 

赤いモレスキンへの憧れは、ただそれを買うだけではいけない。

この本に登場する赤いモレスキンの手帳の持ち主のように

手帳に私自身が表れるように書き留めて、考えて、また書き留める。

そうすることで私と向き合わなくてはならない。

それができるひとになってこそだと思うのだ。

 

 

赤いモレスキンが似合うひとになりたい。

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【読書感想文】だれのこころを

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久しぶりに夏目漱石の『こころ』を読み返した。

 

であいは5年前の夏。

高校2年生の7月、現代文の先生が言った。

 

「2学期は『こころ』をやるので、夏休みに読んでおいてください」

「教科書ではなく全文を」

 

先生がわざわざ珍しいことを言うもんだなと思い、本屋さんで買った。

 

 

先生の言葉は 本気 だったと断言できる。

読書感想文なんて書かない年になったけれど、止まることなく読んだ。

三部構成になっている『こころ』の上、中をゆっくり読んで、

下は最後の一文を読むまで止まらなかったのだ。

 

最後まで読んで、アツくなっていたわたしだけど

2学期に『こころ』を読んできたのは数人だけだった。

 

全部読んでも100%わからないし、

ぐるぐる、ぐるぐる考えてしまうそんな作品なのに

一部しか触れないなんてもったいないと思った。

 

 

はじめて読んだあの頃の感想が

どこにも言葉で残っていないのがとても悔しい。

もし今あなたが高校1、2年生なら、授業で勉強する前に

一冊の本として向き合って欲しい。なんなら感想も書き記して欲しい。

 

『こころ』を再読しようと思ったきっかけは『坊っちゃん』だ。

(結局チケットが取れなくて行けない)舞台観劇の予習をするつもりの

坊っちゃん』を読みながら『こころ』のことを思い出していた。

 

高2の私は、先生とKとお嬢さんの三角関係が非常に気になった。

手紙で明かされる先生の嫉妬や孤独感はつかめそうだけれど

Kとお嬢さんの真意はわからないし、先生もわからないのだと思う。

 

 

改めて読み返しても、やっぱり真意はわからなかった。

 

でも少なくとも、Kは先生に対して

先生がKに感じていた気持ちに似たモノを

もっていたのではないかと思えるようになった。

 

 

それは私が大学生活のうちに気づいた、

「私が誰かをうらやむのと同じくらい、誰かも他人をうらやんでいる」

というものだ。

 

 

憧れや尊敬のようなキラキラした気持ちから

嫉妬・嫌悪・拒否といったドス黒い気持ちまで

やっぱり自分以外の他者への気持ちはあふれてしまう。

 

自分のなかにあらわれたたくさんの気持ちと向き合うことが大切だ。

その術を学校で学び取るのだろう、と思う。

 

 

大学4年になった私は、「先生と私」の関係にも注目したい。

死ぬまで秘密にするつもりの告白をなぜ先生は私に打ち明けるのか。

手紙では書き手の先生のことを寄り添い、批判することができた。

 

でも先生と私のよくわからない親しさは何なのか、

どう生まれたのか、先生からの私への気持ちや揺れはまったくわからない。

言動から推測するだけだ。

 

先生と私のこころのうちを

先生とKとお嬢さんのこころのうちを考えるとともに

わたしのこころについても考える、向き合うことができるはずだ。

他人の生活を覗くっておもしろい

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なんだか変態みたいなタイトルになりました。

きちんとここで断っておきますが、一般人の家を覗き見したりなんてしません。

私もされたらいやなので。

 

私のいう「他人の生活」とは、YouTubeに投稿されている、

私ではない「誰か」の、暮らしをおさめた動画のことを指します。

 

去年からの自粛期間でYouTubeをよく見るようになりました。最初に興味を持ったのは、アイドルとお笑いでした。もともとすきなジャンル(お笑いは茶の間です)なのでスペシャル追加コンテンツだと思っている自分がいます。

本来ならお金を払って見ることができるものをありがたいことに無料で見れているな~という感じです。今現在もそんなふうに見ています。

 

その次に興味を持ったのは、ルームツアー動画でした。実家暮らしの私にとって「自分だけのお気に入りの空間をつくる」ことは憧れでした。こんな部屋に住んでみたいな~とかめちゃめちゃこだわりが詰まってるな~と思いながら見るのがすきです。

これは余談ですが、テレビを見ないので置いてません!という方が何人もいて驚きました。テレビだいすきマンなので…

 

たいていのルームツアー動画を見終えて、今度は「暮らし」「ルーティン」といった言葉で検索していました。そうして辿り着く動画のほとんどに謎の「Vlog」なる文字がありました。

 

今見ても、調べなきゃわかんねーよと思います。この「Vlog」は「Video」+「blog」を掛け合わせた造語であり、動画形式のブログを指します。ブログは書くもの読むものという時代から、撮るもの見るものにもなったということですね。内容は必ずこうでなくては!と決まっているわけでもなく、〇〇をした日の様子や、買い物した商品の紹介などさまざまです。私は同世代~少し年上(と思われる)方のVlogを好んで見ています。

 

そんな誰かの生活の一部を切り取った「Vlog」に、私は覗き見しているような感覚を覚えます。自分と家族以外の人間が生活している様子を見ることって基本ないじゃないですか?YouTubeという大きなプラットホームを介してVlogという窓に手をかける私。ちょっとこわいかも…?

 

人を家に呼ぶのも、誰かの家に行くのもちょっぴり抵抗感がある私は、誰かの生活を感じることが苦手だと認識していました。でもVlogYouTubeにアップされている以上、作り手の存在する意図をもった作品だと捉えることができます。だから私でも抵抗感なく見られています。

 

私が考えている以上に私は他人の生活に興味があるようです。苦手だからと避けてきたものが案外いいものだと気づく瞬間って、人生でそう何度も訪れないと思います。いい経験になりました。

 

Vlogは「誰か」の日常生活を切り取った動画です。その「誰か」がつくる作品として投稿されているからこそ安心して覗けてしまうのが魅力です。私にとっては勝手に元気や勇気をもらったり、励まされたり、ひとりじゃないんだときづかせてくれたりするものばかりです。

 

ほんとうの名前も知らない、私じゃない「誰か」も同じ世界で生きている。「誰か」の生活を自分と比べて落ち込む必要も羨む必要もないけれど、自分だけじゃないと気づくことができたら私は心が少し軽くなる気がします。

 

 

手っ取り早く笑顔になりたいときは、

お笑い芸人アインシュタインのモーニングルーティン動画がおすすめです。

Vlogかと聞かれると答えづらいですけどね。

【読書感想文】うどんみたいにつるりと読んだ

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おなじコンビニで18年間アルバイトを続ける。

これは異常なことなのか。普通に考えたら異常だと思うかもしれないけれど、私たちのいう普通に考えたらの「普通」は果たして本当に普通なのか。

そんなことを考えながら読んでいたら、いつのまにか最後まで読み終えてしまっていた。おそろしい。つるりと食べきったうどんのようでした。

 

実は私がはじめて村田沙耶香さんと出会ったのは、この『コンビニ人間』ではありません。2019年に見た「inseparable 変半身(かわりみ)」でした。その演劇に村田さんは原案として関わっていらして、パンフレットを見た私も「あー『コンビニ人間』の人なのね」と、そんな感じでした。

詳しくは話すと長くなるんですけど、舞台設定が(変態な意味で)すごくて正直「なんだこの世界観…こんなの誰が思いつくんだよ…」と困惑しながら見た記憶があります。アフタートークまで聞いたのに、私の感想メモには謎のポエムしか残っていません。相当なインパクトだったのだと思われます。

 

 

 

本題に戻します。

 

おなじコンビニで18年間アルバイトを続ける。

 

この状態を「普通」と言えるかという問いに対して、私はどう答えたらよいのでしょう。私の思う「普通」とは違うとしか言えません。

 

でも、この「普通」って誰が作ったものなんだろうって思います。

「普通の人間っていうのはね、普通じゃない人間を裁判するのが趣味なんですよ。」(115頁)

普通の人間はけっして人間を攻撃しようとしているわけではないんです。自分とそして周りと違って、普通じゃない(=おかしい)と感じるから、だから糾弾していく。

私はおそらく「普通」の人間に近くて、今も自分とは違う「普通じゃない」人間をあーだこーだ言って、楽しんでしまっているのかもしれない。

もしそうならそれは、どんなに恐ろしいことなんだろうと思います。

 

 

幼いころから自分が「普通」ではないことに気づいていた主人公は、自分自身をコンビニの一部にしていくことで、その違和感から逃れていました。

 

それが崩れていくのが物語の後半。

 

完全なコンビニ人間でなければ「普通」と認められないことを、それを「普通」じゃないと感じてしまっている私が悲しいなんて思っていいのか。それは自分とは違う考えや価値観を持つ人を無意識的に傷つけているんじゃないのか。

私にとっての「普通」の人間ってなんだろう。

 

圧巻の150頁でした。